1.蒙古襲来
13世紀初め、モンゴル高原から現れたチンギス・ハンが、中央アジアを征服しました。その孫の代には、ユーラシア大陸の大半を征服し、モンゴル帝国という大帝国を築きました。
チンギス・ハンの孫の1人がフビライ・ハンです。彼は中国を支配し、国号を元としました。フビライ・ハンは朝鮮半島の高麗(こうらい)を従え、さらに日本に対しても服属することを求めてきましたが、鎌倉幕府の8代執権北条時宗は、この服属要求を拒否しました。
すると、元は大軍を率いて1274年と1281年の2度にわたって日本をおそってきました。この戦いを元寇(げんこう)といいます。
1274年の1度目の戦いを文永の役(ぶんろくのえき)といいます。日本の御家人は、元の集団戦法や火薬を使った武器に苦戦しましたが、元軍は暴風雨の影響で元軍はすぐに引き上げました。
1281年の2度目の戦いを弘安の役(こうあんのえき)といいます。この戦いでは、事前に幕府が海岸に築かせた石塁(防塁)のため、元軍は上陸することすらできず、暴風雨により大損害を受け、引き上げました。
2.鎌倉幕府の衰退
元との戦いをなんとか乗り切った日本でしたが、その後の御家人の生活は苦しくなっていきました。
その理由としては、元との戦いに対する恩賞が不十分であったことがあげられます。御家人たちは一所懸命に戦ったわけですが、元寇は外国との戦いであったため、新たな領地が得られず、十分な御恩が与えられなかったのです。
御家人の生活が苦しくなったもう1つの理由として、当時の御家人の領地は分割相続によって受け継がれていたため、御家人の領地が小さくなっていき、生活が苦しくなったということがあげられます。
このような状況に対し、鎌倉幕府は生活の苦しくなった御家人を救うため、1297年に徳政令(永仁の徳政令)を出して、借金の帳消しや、御家人が失った土地をただで取り戻させることにしました。しかし、かえって経済が混乱し、御家人たちは幕府への不満を強めていきました。
また、このころになると、荘園領主に年貢を納めず、幕府にも従わない、悪党とよばれる新興の武士などの集団が現れました。
3.鎌倉幕府の滅亡
幕府の弱体化を見た後醍醐天皇は、政治の実権を朝廷に取りもどそうとして、幕府をたおすことを計画しました。
これに有力御家人の足利尊氏や新田義貞も協力したため、1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。
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