1.外国船の来航と幕府の対応
19世紀以降、通商を求めて外国船が日本に多く来航するようになりました。
幕府はこれに対応するため、北方の調査を進めました。例えば、間宮林蔵は樺太が島であることを発見しました。
さらに1825年、幕府は鎖国を守るために異国船打払令(外国船打払令)を出し、日本に近づく外国船を砲撃して追い払うことを命じました。
1837年、アメリカの船が日本の漂流民を送り届けに来ました。ところが、異国船打払令にもとづいてこのアメリカ船を砲撃してしまうという事件が起こりました。このとき幕府の政策を批判したのが渡辺崋山と高野長英で、2人は幕府によって処罰されました。
2.国内の動揺
国内では、1830年代に天保のききんが発生し、多くの餓死者が出ました。そのため、農村では百姓一揆、都市で打ちこわしが急増しました。
このような状況において、もと大阪町奉行所の役人で陽明学者の大塩平八郎が、1837年に弟子などとともに反乱をおこしました。
これを大塩の乱(大塩平八郎の乱)といいます。反乱は1日でしずめられましたが、幕府はもと役人が反乱を起こしたことに衝撃を受けました。
19世紀になると、農村でも変化が見られました。大商人や地主が農村内に工場をつくり、農民をやとって分業で製品を生産させるしくみが広がりました。このような生産方法を工場制手工業(マニュファクチュア)といいます。
3.天保の改革
外国船の来航や国内の動揺に対応するため、1841~43年にかけて老中の水野忠邦が改革を行いました。これを天保の改革といいます。
水野忠邦は物価の上昇をおさえるため、営業を独占していた株仲間を解散させました。
また、江戸に出かせぎに来ていた農民を農村に帰らせました。
さらに、江戸・大阪周辺の農村を幕領にする命令を出しましたが、大名や旗本の反対を受けて中止となりました。結局、水野忠邦は失脚し、改革は2年余りで失敗しました。
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