1.豊臣秀吉の天下統一
①天下統一への道のり
織田信長が本能寺の変で自害した後、織田信長の家来の豊臣秀吉(当時は羽柴(はしば)秀吉)が明智光秀をたおしました。後継者争いに勝利した豊臣秀吉は、大阪城を拠点として天下統一に向けてつき進んでいきました。
秀吉は朝廷から関白に任命され、さらに豊臣の姓を与えられました(このときから豊臣秀吉になります)。
そして1590年、ついに秀吉は全国の統一を達成しました。
②豊臣秀吉の政策
豊臣秀吉は、天下統一と前後してさまざまな政策を進めました。
田畑の面積や収穫高を調べ、予想される収穫量を米の体積である石高で表すことにし、実際の耕作者を土地の所有者として検地帳に登録しました。これにより、土地に対するそれまでの複雑な権利関係は否定されました。この政策を太閤検地といいます。
また、刀狩を実施し、農民から刀や鉄砲などの武器を取り上げました。
刀狩の目的は、農民の一揆を防ぎ、耕作に専念させるためです。
この太閤検地と刀狩を通して、武士と農民の身分の区別が明確になりました。これを兵農分離といいます。
キリスト教については、宣教師の国外追放を命じる法令を出しました。しかし南蛮貿易は禁止しなかったため、キリスト教は引き続き日本に広まり続けました。
③朝鮮出兵
日本国内を統一した豊臣秀吉は、明の征服をめざすようになりました。その通り道である朝鮮に服従をせまりましたが朝鮮から拒否されたため、2度にわたって朝鮮に出兵しました。しかし、日本の軍勢は苦戦を続け、1598年に豊臣秀吉の死去にともない引きあげました。
2.桃山文化
安土桃山時代には、戦国大名や大商人の権力や富を背景とした、豪華で壮大な文化が栄えました。この文化を桃山文化といいます。
戦国大名が建てた城には、支配者の権威を示す壮大な天守閣がつくられました。例えば、安土城、大阪城、姫路城(白鷺城(しらさぎじょう))などが有名です。
絵画では、狩野永徳の代表作である「唐獅子図屏風」があります。
茶の湯を大成した千利休は、わび茶を完成しました。
芸能では、出雲の阿国という女性がかぶき踊りを始めました。
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