解説チェック
空らんを正しくうめましょう。答えは1つ1つの見出しのすぐ下にあります。
1.( 1 )運動
征韓論が否定されて政府を去った者のうち、言論で政府批判をした人たちの行動から、( 1 )運動が起こった。(1)運動は、1874年に( 2 )らが( 3 )を政府に提出し、国会の開設を要求したことをきっかけとして起こり、各地で運動が展開されていった。
一方、武力による反抗をする者もいた。この「士族の反乱」のなかでも最大規模で最後の反乱が1877年の( 4 )であった。これは鹿児島の士族らが( 5 )を中心に反乱を起こした反乱であったが、幕府の徴兵令で組織された軍によってしずめられた。
1880年には( 6 )が結成され、政府に国会の開設を改めて要求した。この動きに対し、政府が1881年に( 7 )の勅諭を出し、10年後に国会を開くことを約束すると、政党の結成が進んだ。(2)を党首とする( 8 )、( 9 )を党首とする( 10 )などが結成された。
しかし、1880年代には埼玉県の秩父事件など激化事件が多発し、(1)運動は停滞した。
1の答え(タップで開きます)
1 自由民権運動
2 板垣退助
3 民撰(民選)議院設立の建白書
4 西南戦争
5 西郷隆盛
6 国会期成同盟
7 国会開設の勅諭
8 自由党
9 大隈重信
10 立憲改進党
2.憲法の制定
1885年に内閣制度が発足し、初代内閣総理大臣(首相)に( 11 )が就任した。1889年には( 12 )が発布された。この憲法は君主権の強い( 13 )の憲法を参考に作成され、主権は天皇にあるものとされた。国民は( 14 )とよばれ、法律の範囲内で各種の自由や権利が認められることとなった。
帝国議会は二院制で、貴族院と衆議院で構成された。このうち衆議院議員は選挙で選出されたが、当時の有権者は直接国税( 15 )円以上を納める満( 16 )歳以上の男子に限られた。
2の答え(タップで開きます)
11 伊藤博文
12 大日本帝国憲法
13 ドイツ
14 臣民
15 15
16 25
3.不平等条約の改正
1894年、( 17 )の撤廃に成功した。1911年には、( 18 )を完全に回復することに成功した。
4.( 19 )戦争
1894年、朝鮮で起こった甲午農民戦争という反乱を受け、清・日本から出兵した軍隊が衝突し、( 19 )戦争が起こった。この戦争は日本の勝利に終わり、1895年に講和条約の( 20 )条約が調印された。この条約により、清は( 21 )・台湾などを日本にゆずること、日本に賠償金を支払うことなどが決まった。しかし、(20)条約調印の直後、( 22 )がフランス・ドイツとともに、(21)を清に返還することを日本に要求した。このできごとを( 23 )という。日本はやむなくこの要求を受け入れ、(21)を清に返還した。
(19)戦争後、欧米列強や日本が清への進出を進め、清は半植民地のような状態になった。これに反発する清の民衆が外国の勢力を追い払うために蜂起したのが、1899~1900年の( 24 )事件である。しかし各国は清に出兵し、これをしずめた。
3・4の答え(タップで開きます)
17 領事裁判権(治外法権)
18 関税自主権
19 日清戦争
20 下関条約
21 遼東半島
22 ロシア
23 三国干渉
24 義和団事件
5.ロシアとの対立と戦争
1902年、日本は同じくロシアと対立していた( 25 )と同盟を結ぶことに成功した。この同盟を( 26 )という。1904年、ついに( 27 )戦争が始まった。詩人の( 28 )は、出兵した弟を思い「君死にたまふことなかれ」という詩を発表した。
1905年、アメリカの仲介によって、(27)戦争の講和条約である( 29 )条約が調印された。そのおもな内容は、ロシアは北緯50度以南の( 30 )を日本にゆずることなどであった。この条約で日本は賠償金を得ることができなかった。条約の内容が国民に知れわたると、国民の不満が爆発し、日比谷焼き打ち事件が起こった。
5の答え(タップで開きます)
25 イギリス
26 日英同盟
27 日露戦争
28 与謝野晶子
29 ポーツマス条約
30 樺太
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