1.不平等条約の改正
明治時代初期に派遣された岩倉使節団による条約改正交渉は、失敗に終わりました。その後も日本は、各国と条約改正のための交渉を進めていきました。不平等条約の改正が達成されるまでを確認していきます。
1880年代、日本は条約改正交渉を有利に進めるため、欧米の制度や風習を積極的に取り入れました。例えば、東京に鹿鳴館を建設しさかんに舞踏会を開きました。この政策を欧化政策といいます。しかし、国内から批判が出たため、この政策は失敗しました。
1890年代に入ると、ロシアの動きを警戒したイギリスが日本と良好な関係を築こうとして、条約改正に応じる姿勢を見せました。
1894年、日清戦争の直前に日英通商航海条約に調印し、日本は領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功しました。その後、各国とも同様の条約に調印しました。
1911年には、関税自主権を(完全に)回復することに成功しました。このときは、最初にアメリカとの間で条約を改正して実現しました。日本がロシアとの戦争に勝利したことで、欧米の列強から日本が強い国家として認められた、ということも背景にありました。日露戦争については別の回で学びます。
明治時代は明治45年、1912年まで続きましたので、幕末に結ばれた不平等条約の改正は、明治時代の終わりごろまでかかったということです。
2.対外関係と戦争
特に1880年代以降、日本と清は朝鮮をめぐって対立を深めていました。清は、朝鮮の宗主国としての立場を主張していました。これに対し、日本は、朝鮮は独立国であって清の属国ではないと主張しました。
1894年、朝鮮で農民が反乱を起こしました。これを甲午農民戦争といいます。この反乱をしずめるため、朝鮮政府の求めに応じて清が朝鮮に出兵すると、これに対抗して日本も朝鮮に出兵しました。反乱そのものが収まった後も、日本と清の軍隊の対立は続き、両国の対立はついに戦争に発展しました。1894年に開戦したこの戦争を日清戦争といいます。
この日清戦争は日本が勝利し、翌1895年に下関条約が調印されました。
その内容は、
・清は朝鮮の独立を認めること
・清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本にゆずること
・清は日本に賠償金2億両(テール)、日本円にして約3億1千万円を支払うこと
などでした。
しかし、この条約の調印の直後、日本の進出をよく思わないロシアが、フランス・ドイツとともに、遼東半島を清に返還することを日本に要求してきました。このできごとを三国干渉といいます。
これらの国々に対抗する力のない日本は、この要求を受け入れ、遼東半島を清に返還しました。国民の間には、ロシアに対する不満が強まりました。
さて、清が日本に敗れると、欧米の各国は競って清に進出し、清国内に勢力範囲を設定していきました。清は列強の半植民地のような状態になってしまいました。
清国内では、欧米諸国に不満をもつ民衆が外国の勢力を追い払うために立ち上がりました。清国政府は、本来であればこの反乱をしずめる立場にあるはずなのですが、この反乱を支持して列国と戦うことを選びました。清の軍隊もこの暴動に加わり、北京の外国公使館を取り囲みました。
これに対し、日本やロシアなど8か国が清に出兵し、ようやくこれをしずめました。1899~1900年に起きたこのできごとを、義和団事件といいます。このできごとのあと、列国は清に軍隊をおくことなどを認めさせました。
3.日本国内の動き
このころ、日本国内では、伊藤博文が政党の結成に乗り出し、1900年に立憲政友会が結成されました。
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