必修歴史

江戸幕府の滅亡(必修解説)

1.攘夷の挫折

1862年、現在の神奈川県で、薩摩藩(鹿児島県)の藩士が、大名行列を横切ったイギリス人を殺害する生麦事件が起こりました。

イギリスは、これに対する報復として1863年に鹿児島を砲撃し、薩摩藩と戦争となりました。これを薩英戦争といいますが、薩摩藩は外国との実力差を認識し、攘夷が不可能であることを知りました。

 

一方の長州藩(山口県)は、下関海峡(関門海峡)を横切る外国船を砲撃し、攘夷を実行しました。これに対する報復として、1864年、アメリカ、オランダ、イギリス、フランスの4か国が報復を行い、下関砲台を占領しました。

この四国艦隊下関砲撃事件によって、長州藩も攘夷の不可能をさとりました。

これらの経験を通して、薩摩藩と長州藩は幕府に反対の立場をとるようになり、幕府をたおして新しい政府を樹立することを考えるようになりました。

 

薩摩・長州両藩は、1866年、土佐藩(高知県)の坂本龍馬(坂本竜馬)らの仲介で、ひそかに薩長同盟を結び、倒幕運動へと動き始めました。

またこのころ、薩摩藩では西郷隆盛大久保利通が、長州藩では高杉晋作木戸孝允が、それぞれ藩の実権をにぎるようになりました。

2.民衆の動き

開国後の政治や経済の混乱のなか、「世直し」を期待する農民の一揆が全国で多発するようになりました。

また、ええじゃないかと人々が各地でおどりさわぐ現象も見られました。

3.大政奉還

このような状況のなか、江戸幕府の15代将軍徳川慶喜は、186710月、政権を朝廷に返上することを表明しました。これを大政奉還といいます。これにより、260年あまり続いた江戸幕府が滅亡しました。

4.新政府軍と旧幕府軍の戦い

徳川慶喜は、新しい政府で引き続き実権をにぎろうと考えていましたが、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府側は、朝廷を動かして王政復古の大号令を発し、天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。

また、徳川慶喜を新しい政権から除こうとしたため、旧幕府側と新政府側は対立し、両者の間で戦いが起こりました。この戦いを戊辰戦争といいます。

戊辰戦争は1868年1月の鳥羽・伏見の戦い(京都)から始まり、1869年5月の函館(北海道)の五稜郭の戦いまで続きました。

その結果、旧幕府軍が降伏し、新政府が国内統一を達成して新しい国づくりを進めていくことになりました。


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