人物一覧
1.幕政の改革と幕府の動揺
・徳川吉宗
・田沼意次
・松平定信
・大塩平八郎
・水野忠邦
2.新しい学問と化政文化
・本居宣長
・杉田玄白
・伊能忠敬
・喜多川歌麿
・葛飾北斎
・歌川(安藤)広重
・十返舎一九
・小林一茶
・間宮林蔵
1.幕政の改革と幕府の動揺
1716年、8代将軍に就任した徳川吉宗は、約30年にわたって将軍をつとめ、その間、享保の改革とよばれる政治を進めました。財政難に対応するため、新田開発のほか、武士には質素・倹約をすすめ、上げ米の制を定めて大名から1万石につき100石の米を幕府に納めさせました。また、庶民の意見を聞くために目安箱を設置し、裁判の基準となる法律として公事方御定書を制定しました。享保の改革の結果、幕府の財政は一時的に立ち直りました。
10代将軍の頃に政治の実権をにぎったのが、老中の田沼意次でした。田沼意次は商工業者が株仲間を結成することを積極的にすすめ、商人の力で幕府財政を立て直そうとしました。しかし、天明のききんが全国に広がると、各地で百姓一揆や打ちこわしが発生しました。結局、田沼意次は老中を辞めさせられました。
田沼意次の後、老中の松平定信が、祖父の徳川吉宗の政治を理想として、寛政の改革を始めました。倹約令を出し、旗本や御家人の借金を帳消しにしたほか、朱子学以外の学問を教えることを禁じるなどしました。しかし、きびしい政治改革に人々は不満を強め、改革は6年ほどで終わりました。
1830年代は、天保のききんが全国に広がり、多くの餓死者が出ました。百姓一揆や打ちこわしも多く起こりましたが、幕府は十分な対応ができませんでした。
幕府の元役人であった大塩平八郎は、1837年にききんで苦しむ人を救うために乱を起こしましたが、1日でしずめられました。
1841年、老中の水野忠邦が天保の改革を始めました。物価の上昇をおさえるため、株仲間の解散を命じました。また、江戸や大阪周辺の農村を幕領にする命令を出しましたが、大名や旗本などの反対によって実現できませんでした。改革はわずか2年あまりで失敗に終わりました。
2.新しい学問と化政文化
18世紀後半、本居宣長は「古事記伝」を書き、国学という新しい学問を大成しました。
杉田玄白はヨーロッパの人体解剖書を翻訳して「解体新書」を出版し、オランダ語を通してヨーロッパの学問や文化を研究する蘭学の基礎を築きました。
19世紀初めになると、伊能忠敬が西洋の測量術を用いて全国を歩き、正確な日本地図を作成しました。
絵画でも、すぐれた人物が多くの作品を残しました。喜多川歌麿は美人画で活躍しました。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」、歌川(安藤)広重は「東海道五十三次」とよばれる絵画のシリーズを描いています。
文学では、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が人々の人気を集めました。俳諧では、小林一茶などが活躍しました。
18世紀後半になると、外国船が日本に来航するようになりました。幕府の命令を受けた間宮林蔵は、19世紀初めに北方を探検し、樺太が島であることを確認しました。
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