必修歴史

日露戦争と東アジア(必修解説)

1.日本とロシアの対立、戦争

1890年代を通して、日本はイギリスと接近する一方、ロシアとは対立を深めていきました。利害関係の一致した日本とイギリスは、1902年、ロシアの南下政策に対抗するため、日英同盟を結成しました。

これより以前には、朝鮮をめぐって日本と清が対立し、日清戦争で一応の決着をみたわけですが、今度は韓国をめぐってロシアとの対立が始まりました(朝鮮は1897年に大韓帝国と国号を改め、略して韓国となりました)。
こうして、1904日露戦争が始まりました。

戦争を始めることについては、賛成・反対さまざまな意見がありました。与謝野晶子は、出兵した弟を思い「君死にたまふことなかれ」という詩を発表しました。

日本は有利に戦争を進めていましたが、戦争が長引くと物資や兵力が不足してきました。ロシアも国内で革命運動が起こり、ともに戦争を続けることが難しくなってきました。

そのようななか、アメリカの大統領の仲介で、1905年に講和条約のポーツマス条約が結ばれ、日本とロシアの戦争は終わりました。

条約の内容は、
・ロシアは北緯50度以南の樺太を日本にゆずること
・ロシアは韓国における日本の優越権を認めること
・ロシアは遼東半島旅順・大連の租借権を日本にゆずること
・ロシアは長春以南の鉄道(南満州鉄道)の利権を日本にゆずること
などでした。

なお、日本はこの条約で賠償金を得ることはできませんでした。そのため、日本国内ではこの条約に不満をもつ人々によって、日比谷焼き打ち事件などの暴動が起こりました。

この条約の調印後、日本は大陸に半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立しました。

2.韓国の植民地化

1905年、日本は韓国を保護国として外交権をうばうとともに、韓国統監府を設置しました。初代統監には伊藤博文が就任しました。

1910年には韓国併合が行われ、名前も韓国から朝鮮に改められました。朝鮮総督府を設置した日本は、武力を背景に統治を始めました。

3.中国の革命運動

中国では清をたおそうとする動きが起こりました。外国にやられっぱなしの清政府には国を任せてられない、ということですね。

1911年、三民主義をとなえる孫文が指導者となって、辛亥革命が起こりました。翌1912年、孫文を臨時大総統としてアジアで最初の共和国となる中華民国が成立しました。こうして、300年近く続いた清は滅亡しました。


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